北郷一刀の提案した政策を実行してから更に一ヶ月後。
劉備への思慕から、呉への不信感が拭えなかったという民衆の支持は順調に上昇。初期の頃より効率的な政策が実行出来るようになり、
遅れ気味だった治水、開墾の拡大や、軍への徴兵も、予定を上回るほどの速度で完了し、いまだ続く袁紹、曹操の戦いから逃れた流民の受け入れにも十分な対応を見せた。
そのおかげもあって町中は活気に満ち溢れ、民の顔には乱世の無情さを感じさせない、明るい笑顔が浮かぶ。
そんな平和な日々が続く中で、私こと、孫仲謀には実に悩ましい懸念を抱えている。
奇抜な発想と確かな仕事振りを発揮し、民の信頼も厚い、平原一番の人気者である北郷一刀への対応だ。
誰にも打ち明けず、胸の内に秘めたこの思いは、いまだ誰も知る由は無いだろうが、もしも思春にバレてしまったらと思うと気が気ではない。
北郷の身の為にも、このままずるずると先送りにして良い問題ではないだろう。
一念発起し、覚悟を決めた翌日の朝。政務室への移動中に前方の扉が空いた一室から異様な音が聞こえてきた
「ぬふふふふふ……」
小鳥の囀りとは程遠い、地を這うような怪しげな笑い声。
近づくにつれ、抑えきれない愉悦を噛み締めているような低音が漏れている。不審に思った私は立ち止まり、扉近くに近づいてみた。
耳を澄ませば、はっきりと笑い声が聞き取れる。
……万が一、賊が侵入しているのなら看過出来ないわね……。
いざという時に備え、戦闘態勢を取り、気配を悟られないようにゆっくりと扉と壁の隙間から覗き込む。
朝日が差し込むはずの部屋の中は一瞬、倉庫だと見間違ぐらいの雑多に大小様々な木箱がそこかしこに積まれ、窓からの光を遮っている。
どうやら笑いの主は、中央奥にある作業机に鎮座しているようだが、卓上にも箱が載せられ、視界が遮られてしまう。
なんとか相手を確認しようと立ち位置を変えているうちに、部屋の持ち主の事を思い出した。
ここは確かの李典の自室だったかしら?
彼女は北郷の取り入れた三人組の一人で、カラクリとかいう怪しい工作物を造るのが得意らしい。
実際に目にした事は無いけど、あの男が身銭を切って発明品を依頼しているらしいのは聞いた事がある。
『かめら』だとか、『びでお』なんて言葉の意味さえ分からないものを耳にしたけど……。
だとすると木箱はその材料か完成品だろう。
目を凝らしてみても、かすかに暗い室内では、はっきりと確認出来ないが、蓋の開いた箱からはなにか小さい物体がはみ出ているのが分かる。
ただ分かるのはそこまでで、やはりこれ以上の詮索は直接進入するしかないようね。
部屋の主を思い出した事で相手が李典である可能性がとても高くなったけど、この薄気味悪い笑い声はとてもじゃないが、真っ当な感情から出るものではないと思う。
なるべく疑う真似はしたくないが、北郷に半ば押し切られる形で登用した彼女達が本当に信じられる相手かどうかの判断はまだ付いていない。
敵か味方か、意を決して扉に手を掛けたその瞬間―私の手に別人の手が重ねられた。
「こそこそしてどうしたの?孫権」
「―――!? ほぷっ!?」
びっくりして振り向こうとしたが、あまりにも近い位置に立っている北郷のせいで首しか回らない。
息がかかりそうなくらいの距離で覆いかぶさるようなこの姿勢……。
後ろから見たら、まるで抱きしめられているようじゃない!?
なんでここに。というより、こんなに接近を簡単に許した事に驚きと、この状況のせいで返す言葉が見つからない。
そんな私の動揺を気にした様子もなく、肩越しに見える彼は一人納得し、
「真桜に用でもあった?それなら遠慮しなくても堂々と入っていけばいいよ。徹夜明けでまだ起きてると思うから」
単なる訪問と勘違いしたのか、あっさりと扉を開け放つ……って待って!?近いの!顔が近いの!!
張り付いていたせいで開く扉に押され、一瞬とはいえ、更に北郷に密着してしまう。
「―――ッ!!」
触れるか触れないかの微妙すぎる距離のまま、扉は開かれ、暗かった室内に明かりが満ちていく。
「おーい真桜。今いいか?」
「ぬふふふ……って隊長!?」
突然の来訪に慌てたのか、どたばたと物音を立てながら作業机の上の箱が崩れ落ちる。
その先に居た笑いの主は、北郷の予想通りの人物。李典が張り付いたような笑顔で固まっていた。
(? 今、後ろ手に隠したのは……)
「なにもそんなに慌てなくても……。寝てないのに急に動くと体に悪いぞ?」
「そ、そんなん急に入ってくる隊長があかんのやないか!?」
「む……。確かにそれはあるかも知れないけど……怪しいな。……なんか隠してないか?」
「ぎっくぅ!!……い、いや、別になにもないで?」
「語るに落ちているような気もするけどな」
私もギクリと発音する人間は始めて見るわ。
疑惑の視線に晒される中で、余程聞かれたくない理由があるのか、李典はなんとか話題を逸らそうとして、
いくらか視線を巡らした後、思い出したように積まれた木箱を指差す。
「ええと、あれやあれ。例の華蝶仮面ぐっず、初期出荷分の生産が終わったで!」
華蝶仮面ぐっず?
確かこの前の軍議で特別に予算がほしいって言ってた件かしら?
更なる人気獲得には必要な経費なんて、北郷にしては珍しく息を荒げていたから気にはなっていたけど、この事だったのね。
一人納得し、北郷の顔を伺うと目に見えて嬉しそうな笑みを浮かべている。
「おお、ついに終わったのか。頑張ったな、真桜」
「そやでー♪ごっつい頑張ったおかげで安心の高品質を維持!全ての購入者に満足を与える出来になってまっせー。百聞は一見に如かず。実物を見てやってや」
齧り付くような速度で手近な木箱に近づき、中を弄り出す李典。
その手に掴まれ出てきたのは、見た事もない程、精巧に作られた木彫りの人形の数々と数種類の絵画、人一人はありそうな大きさの枕など多岐に渡る。
用途はわからないが、どれにも共通しているのはあの華蝶仮面を名乗っている時の李典達が描かれている点。
特に人形にいたっては、童が遊ぶような簡素な造型とはかけ離れた細い体躯で作られ、遊び道具というよりは鑑賞品に近い印象を受けるくらい見事な代物ね。
手先が器用とは聞いていたけれど、まさかここまでとは思わなかったわ。
北郷は人形の内一つを手に取り、満足げな笑顔を漏らす。
「これは……すごいな。想像以上の完成度じゃないか」
「そやろ、そやろ♪もっと褒めたってや♪」
気分を良くした李典は次々と他の品の説明を始める。
『フィギュア』、『生写真』、『華蝶印入り特製きーほるだー』、『抱き枕』。
種類ごとに聞いた事の無い単語がちらほらと混ざっている。
これは北郷がたまに使う彼の故郷の言葉なのだろうか。
『絶対領域』、『ちらりずむ』。
このあたりは、なぜだろう?非常に問題がある気がする。
私が悩む間にも、二人は和気藹々とした様子で会話を続けている。
「……」
その様子はなんと言うか部下と上司というより、仲の良い年頃の男女の会話のようで、どこか、羨ましい気持ちになってしまう。
思い返せば、北郷と日常会話の類をする機会はとても少ないように思う。
彼が呉に保護された当初は積極的に話しかけてくれていたのに、この平原に赴任してからは業務に関する受け答えばかりになっていた。
主な原因は私が彼を遠ざけているからだけど、彼自身もどこか遠慮した態度を取る事が多くなったように感じる。
……。
はぁ……。
完全に蚊帳の外……。
そう思い浮かんだところで、どこかいたたまれない気持ちになって、会話の合間を狙いポツリと言葉を漏らす。
「……じゃあ、さっきの笑い声の原因は華蝶仮面ぐっずの出来に自分で感動していたからなの?」
「……へっ?」
私よりやや上、北郷の顔に視線があった李典の目がゆっくりと下がり、目が合った。
一瞬の空白の後、呆けたような表情から引き攣ったような驚きに変わっていく。
なにかまずい事でも言ってしまったのかしら?
北郷は「あぁ……」なんてまるで忘れてたような口振りをするけど、特に変わった動きはしないで静観を決め込んでいる様子。
「た、大将!?な、なんでココにおるん!?」
そこに驚くの!?かれこれ結構な時間、この位置にいたのに何をいまさら……それだけ夢中になってたって事なの?
ビシリとこちらを指差すのは礼儀がなってないと注意の一つでもしておいた方がいいのだろうが、
それよりも目の前にいて本当に気付かなかったとは、思いも寄らなかったわ。
「……初めからよ。半開きの扉からおかしな笑い声が聞こえたから確認しに来たのよ」
「うっ、聞こえてたんや……。徹夜明けで妙に気分が高揚しとったから、戸締りまで気が回らんかったわ……」
あはは……と乾いた笑いを浮かべながら肩を落とす。
「……まぁその件は良いとして。それよりさっき隠したものに興味があるのだけど……」
部屋に入る前に聞こえた声の原因はおそらくそれだと思う。
「……さっきって……まさか」
「えぇ。貴方が最初に握り締めていた……」
大きさからして、『ふぃぎゅあ』と同じ人形。ちらりとしか見えなかったけどここに置いてあるものとは種類が違った気がするのが引っかかる。
どちらかといえばしっかりとした体格の造りで、羽織を着た人物はたぶん……。
「!? うぎゃああああ!!」
「ど、どうしたの、真桜!?」
突然の奇声とともにこちらに向かって詰め寄ってくる。
「なんも無い!なんも無いんや!」
「ちょっと!?落ち着きなさい!」
彼女を手で制しながら、落ち着かせようとする。……これだけ過剰すぎる反応をするって事は、余程知られたくないのね。
真意を問おうにも顔を真っ赤に染めて、あたふたとしている李典にまともな受け答えはできそうもない。
一旦、話し合おうと手を下ろした瞬間。それが合図であったように更にずいと接近してきた。
「いったいどうし……うおっ!?」
「きゃっ!」
「後生やー!何も見んかった事にしといてー!」
不意な接近で避ける事も適わず、北郷と李典に挟まれる形になってしまった。
間近に写る彼女の表情は、もはや泣きそうなくらい強張っている。
……やっぱりこの子も、他の娘と同じように北郷の事を……。
しがみつく彼女を引き剥がそうとして肩に触れると、私だけに聞こえるような小さい声でそっと耳打ちされる。
(黙っといてもらえんやろか……。その、隊長の人形眺めて悦に入ってたなんて本人にばれたら、うち……もうまともに隊長の顔見られへん!)
なんて。捨てられた子犬のような視線で訴えてくる彼女に苦笑しながらも、安心させるようにそっと髪を梳く。
(慌てなくて良いわ。別に誰に迷惑がかかるわけでもないでしょう?なら個人の趣味に口を出すつもりはないから)
(ほんまに!?絶対、隊長には黙っといてください!……人形鑑賞が趣味ってわけやないけど、変な誤解されたくないんや)
(……。ただ気になって聞いただけだから安心しなさい。北郷には一切話さないから)
その気持ち、分からないでもないから。
その言葉でようやく納得できたのだろう。ほぅ、と大きく息をつくと照れたように、はにかみながら近すぎた距離を開く。
ようやく落ち着いた彼女に安堵しながら、渦中の人物を仰ぎ見れば、わざわざ内緒話をしている二人の会話を盗み聞くつもりは無いから。
と先に気を回したセリフが出てきた。
こういうところに気が利くなら、もっと他の娘の事も考慮すべきではないの?
実際には口に出さないが、やはり北郷の前だとどうしても自分の感情を抑えきれない。
済し崩し的に収まったこの場で、一人愚痴ると、李典がまた突然と声を上げた。
「どうしたの李典?まだなにか心配事でもあるの」
「あぁいや、そうやなくて。これもまた今更な話題で何やけど……」
「?」
「その、はっきり言ってまうとやな。……隊長はなんで大将を抱き締めてるんやろか?」
……。
…………。
………………。
「ん?あぁ、そう言われればそうだったな。なんかこの体勢、落ち着くもんだから全然違和感無かったよ」
な、なんでそんな冷静なのよ!?
「―ッ!!」
「おぉ?」
悪く言えば羽交い絞め、よく言ってしまえば包み込むように抱擁されていた私は、李典の忠告でようやくこの体勢の危険性に気が付いた。
彼女のうろたえっぷりにどこか余裕を見せていた自分が情けない!
こんな……。
こんな、北郷の感想と同じように違和感が無くて、どこか安心したような気持ちになるなんて!
いまだ抱きすくめるのをやめない北郷の腕を体ごと振り払い、廊下に躍り出る。
(まだ整理がついていないこの気持ちを悟られたくない!)
その一心が頭の中を駆け巡り、この場を離れようと私はろくな釈明もしないまま、走って逃げてしまう。
「お。おい!?孫権!」
呼び止めの言葉も聞こえない振りをして、とにかく距離を離す。
結局、北郷が追って来ることは無かったが、正常な判断が出来なくなった私は途中で思春に止められるまで延々と城内を駆け回っていたらしい。
「隊長はやっぱり罪深い人間やねー」
「……どういう事かな?」
「わかってるクセに。ま、一々口に出すもんやないから黙っとくけどな♪」
「……色々あるんだよ、俺も……。きっと、孫権も」
そんなこんなで昼下がり。中庭にある屋根付きの場所で私は亞莎と一緒に茶を楽しんでいた。
互いに休憩中とは言え、真面目な性格が反映してか最初は公務や世策に関する話題ばかりだったが、
少しずつ気分が解けて、世間話も多くなってくる。
朝方の一件で気が治まらなかった事もあって亞莎との会話はとても落ち着くわね。
茶器に注がれた煎茶で喉を潤し、ゆっくりとした時間が流れるのを肌で感じる。
今日は気分を乱されすぎたわ。うん、北郷の件はまた今度考えましょう。
結局は後送りでしかないが、急いておかしな事態にはしたくない。
我ながら、まだまだ未熟だと自嘲しながら、再び茶器に口をつけ、ほっと一息。
「ところで蓮華様?一刀様との子作りは進んでいますか?」
ぶふううううううううう!!!
金色の霧が視界を埋め尽くす。
「きゃあああ!?いきなりどうしたのですか!?」
「それはこっちの話なんだけど!」
世間話から子作りって、どういう思考を経由したらそんな話題が出てくるのよ!?
「もしかして、そんな……。そっちの方はいくら注がれても子種は……」
分からない!私には貴方が何を勘違いしているのかさっぱり分からない!!
「亞莎!い、いったいなにを言い出すのよ!?」
「あ、えと、どこか気分を害していらっしゃるご様子でしたので、一刀様との関係がうまくいってないと思ったのですが……」
「なぜその関係を、夜に限定するのかしら」
どこまで節操の無さに定評がある男なのだろう。
咳払いを一つして、乱された調子を整える。
「いい、亞莎?北郷はあくまで部下。呉の仲間よ。王として生きるべき私が、彼と男女の関係を持つはずないでしょう」
そう、王には国と民の未来を守る責務がある。姉様ほど要領の良くない私は、他事に感けて大事を見失うような行為は慎むべきだと考えている。
そんな当たり前の答えに目の前の少女は、納得のいかない顔をしている。
「でも前回の蓮華様は、きちんと公私を両立させていましたよ」
「……」
「慣れぬ地での生活と、統治者としての重圧でお辛いのは承知しています。ここは根を詰めず、一度一刀様と話し合って前のような仲睦まじい関係を取り戻してみてはいかがでしょう?」
「……」
「きっと、以前のようなご関係になれるはずですよ」
ニコリと、邪気の無い笑顔眩しく微笑む亞莎の姿が映る。
前回の記憶を取り戻したとの報告が上がってからの彼女は見間違えるような変化があった。
外見が変わったわけでは無いが、人として成長が顕著に現れるようになったからだ。
常に周りを警戒して怯える仕草はなりを潜め、落ち着いて物事に対処できるようになり、一端の文官として遜色の無い働きぶりを見せている。
北郷との関係も良好らしく、辛そうな顔はほとんど見た事は無い。
唯一泣いたのは、姉様と冥琳が死んでしまった過去を思い出した時だけらしい。
前回の記憶なんて眉唾なものに半信半疑な部分もあったが、目の前に最たる実証例が存在する以上、認める他無い。
そうなると、この地では私だけが北郷との思い出が戻っていない事になる。
「……亞莎はあの男が好き、なのよね」
「? はい。そうですが、どうしましたか?」
「……」
「……蓮華様?」
「……その感情は、今のあなたの気持ちから来るものなのかしら」
「えっ?」
唐突な質問に驚く亞莎に、
「記憶とやらで勝手に好きだと錯覚しているだけかも知れないと、思った事は無い?以前好意を持っていたからといって、今も変わらず同じ感情を抱き続けるいるなんて胸を張って言える?」
「あ、あの……それは……」
「……失礼すぎる質問なのは承知しているわ。でもこの際キチンと聞いておきたいの」
「は、はぅ……」
久方ぶりに見る怯えた仕草の彼女に、強い視線を送る。
……やはりどうあっても私は、北郷の事が気になるようだ。
せっかくの休息の時間も、すぐにこの手の話題を真剣に捕らえすぎてしまう。
「過去の好意と、今現在の気持ちは等価なのかしら……」
拭い切れない不安が渦巻く。
「……ねぇ、亞莎……」
これこそが北郷への態度を決め切れない最大の理由。
「過去が無ければ……私は北郷を好きになってはいけないのかしら」
「……あっ」
独り言にも似た自白。
「この感情は……本当に、今の私の感情?以前から持たされただけの、決められた愛情だったと考えたら……」
「……蓮華様」
真っ直ぐのはずの視線は何時の間にか、机の茶碗に注がれていた。
「……」
「……」
どちらも口を開かず沈黙の時間が流れようとした時、近くの草むらが揺れた。
朝の件もあって無為な警戒をせず、相手が出てくるのを待っていると現れたのは……。
「……そう言ったご事情でしたか」
「思春?」
「茶のおかわりを持ってきたのですが、込み入ったお話のようでしたので、失礼ながら状況把握の為、静観しておりました」
そのまま近づき、手に持った茶菓子や急須の乗ったお盆を机に置く。
「主の心配事の真意に気付けなかった私を、どうかお許しください」
言いながら頭を下げる思春。
「あ、あなたが謝る事じゃないでしょう……」
「いいえ。もっと早くに気付くべきでした」
すまなさそうに姿勢を正し、
「あの男の抹殺を」
「うん、言うと思ったわ」
「……」
なにか持ちネタみたいになってるのは気のせいよね?
「あの思春様はどうしてここに?午後は確か北郷隊のみなさんと訓練のはずでは……」
「ああ、それなら」
思春の出てきた草むらの更に先、かすかに見える程度の距離に調練場がある。
よく目を凝らしてみると、北郷と楽進の姿が映っていた。
「あやつが言うには、楽進との訓練が後々役に立つと、私からの指導を途中で切り上げてきたのだ」
「それは凪さんの実力が高いからですか?」
「いや、なんでも倒すべき相手ができたといっていたからな。戦い方が似ているから組手をしたいと……まぁ一通りの訓練内容はすでに終えているから文句は無いがな」
倒すべき相手?北郷に似合わない単語ね。
「……頑張りますね。一刀様」
「確かに。以前、太平の世を実現した頃より忙しそうにしているな」
懐かしむような声色が聞こえる。
本人達は無自覚なようだけど、一歩引いた私には、二人が北郷へ向ける好意の深さがよく分かった。
口では酷い悪口を連呼したり、冷たい態度が多い思春も、結局は彼を信頼しているのだろう。
必要以上に険悪な雰囲気は見た事は無い。
……彼女にも聞いてみるべきね。
「思春。さっきの話は聞いていたのよね」
「はい、失礼ながら」
「なら聞かせてもらえるかしら。あなたは自分の感情の整理。過去と今の分別をキチンと着けられたの?」
とっさに答えられなかった亞莎も息を呑んで返答を待っている。
思春の目はなにも迷った様子は無く、さらりと言い放った。
「そもそも私は北郷に好意など持っていません」
「なっ……!?」
ここでそんな事を言うの!?
私が真剣に、真剣に答えを待っているのに……っ!
たまらず激昂し、立ち上がりざまに手を机に叩きつけた。
その振動で茶器が落ちそうになるのを慌てて亞莎が押さえつける。
「思春っ!ふざけないで!!」
「ふざけてなどおりません。これが、“私”の答えです」
興奮した私を諌めるでもなく、冷静に告げられる。
「……あなたの?」
妙な区切り方が耳につく。
「はい。亞莎のような愛し愛されるような関係になりたいとは思っていませんから、明確な回答とはいえないかも知れませんが。
……ただ、私はあの男を信頼しています。これは以前の記憶によるものが大きいのですが」
思い返すように右手を胸に当てる。
「呉の一員としての日々。その時に感じていた安心感を今でもあいつから感じています」
語るより言い聞かせるような口ぶり。
「過去の記憶による錯覚と言われればそこまでですが、これだけははっきりとしています」
「……」
「理由はなんであれ、この感情は間違いなく自分から生じたのです」
「自分の……」
「記憶があるからこその確信かも知れません。……ですがこの信頼が今まで生きてきた自分からの答えだというのには、自信を持って答えられます」
「……それが思春の答えなのね?」
黙って頷く思春から視線を外す。彼女が言いたいのはこういう事だろう。
記憶と感情は分けて考えるべき、と……。
それは記憶を持つ人間だからいえるのだと一蹴するのは簡単だ。けれどそれでは何も変わらない。
やはり自分から行動を起こすべきなのだろう。
側近ともいえる彼女はそれを伝えようとしてくれているのかも知れない。
「……きっかけをご用意しました」
私の胸中を察したように言葉がかけられる。
「まもなく南陽からある品が送られてきます。それを話題の足がかりにゆっくりと北郷と話し合ってください」
「……いったいなにが送られるの?」
「以前、あの男が修理に出していた得物で……」
そこからしばらく思春と亞莎の会話の後、于禁が持ってきた品を片手に夜、北郷の部屋に行くことを決めた。
そうなれば初めてあの男と二人きりになる。
……。
…………。
………………。
こ、ここで怖気づいては駄目ね!
どこか確定的な、貞操への危機感を抑えつける。
けれど、今日、判断を下すと心に決めたのだ。
北郷はただの家臣か、それとも……は、伴侶となりうる人間かの決断を!!
決心が鈍らぬよう自室で黙想する。
……。
…………。
………………。
……もし、恋人になったらどうなるのかしら?
きっと北郷のことだから、すごく甘やかせてくれる気がする。
歩くときは勿論、腕組みが基本で!
休憩の時なんか、朝みたいにぎゅっと抱き締めてくれるんだけど、私は恥ずかしくて身を捩るの。でも北郷はもっと強く抱いて……。
「逃げないで。俺の蓮華……もっとよく顔を見せて……」
なんて!なんて!言葉でも喜ばせてくれるに違いないわ!!
あぁ、でも!甘やかす側も捨てがたい!!
私の膝枕で安心しきって眠る北郷。
優しく髪を梳いてあげるとくすぐったそうな寝顔を見せてくれるの♪
そ、それで無防備な北郷に……く、くち……!
だ、駄目よ蓮華!妄想ばかりが先行してるわ!
一度、落ちつかないと……。
すぅ……はぁ。
よし、大丈夫。
実際はもっと甘々な関係になるのかもしれないのだから、ここはしっかりしておかないと。
ようやく落ち着いた私の部屋に運命を告げる音が聞こえたのはその直後だった。
全ての条件が整ったはずの一日は、予想など出来もしない報告で締め括られる。
部屋に移動中の私に話しかけてきた、于吉の言葉。
―――北 郷 一 刀 が 裏 切 っ た―――
夜の平原大通りで目を回す二人の少女。
何かに突き飛ばされたのか尻餅をついていた。
「いたたた、もう!なによ今の!危ないじゃないのよ!」
怒れる少女は端麗な顔が歪むのも気にせず、走り去った原因に腕を振り回しながら悪態をつく。
「うぅ、痛いよぅ、ちーちゃん」
「大丈夫姉さん?ほら、立てる?」
立ち上がり、姉に手を差し出す地和。
それに引かれながら、天和はようやく自分の足で立ち、服に着いた汚れをはたく。
「急にお馬さんが来るから、びっくりしたよー。なんだったんだろうね、あれ?」
「知らないわよ、暗かったし赤くて大きい馬ぐらいしか判断できなかったわよ。それより怪我は無いの?」
確認の為、天和の周りを一周して確認してみる。
どうやら目立った外傷は見当たらないわね。
顔を上げると、なぜか嬉しそうな姉さんの顔があった。
「……なに?」
「えへへ、心配してくれてありがと」
にこやかに微笑む姉に私ははっきりと告げる。
「心配するに決まってるでしょ。怪我しても治療費なんて払えないんだから」
「……(ぶわっ)」
「泣かないで!それの原因がこの極貧生活によるものか、妹の態度に不満があったのかは分からないけど」
おそらく、両方だと思う。
なんとか慰めようと七苦八苦していると、ややあって路地影から人和が出てきた。
「……なんで天和姉さんが泣いてるの?」
「色々と積み重なったのよ」
「うぅ、まともな生活に戻りたいようー。しゅうまい食べたーい」
先の接触事故で今までの鬱憤が表に出てきたのか、愚図ってこの場から離れようとしない天和に、溜息をつく地和と人和。
解決には時間が必要と判断した二人は、回復まで適当に姉の相手をする事に決めた。
とりあえず人和は、さっきまで離れていた時に聞いた情報を打ち明ける。
「そろそろどこか安全な場所を見つけないとまずくなってきたみたいよ。姉さん」
「なに?いきなりどうしたの」
身の安全に関してとは珍しかった。
大なり小なり旅芸人には、危険が付きまとうものだけど、そうではないらしい。
ゆっくりと人和が口を開く。
「―――――魏の曹操が負けたらしいの」
―かくして時代は、誰かの望む、誰かの為の世界に向けて、ゆっくりと動き始める―
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第十六話をお送りします。
―自分の心に気付き始めた孫権。だが、しかし―
開幕。