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No.1184919
【哲学シリーズ17】権力への意志、服装からの態度
eye-elさん 2026-04-01 08:06:06 投稿 / 全10ページ 総閲覧数:38 閲覧ユーザー数:38 |
権力への意志、服装からの態度、この二つは対照的である
服装からの態度、正式な名前を、服装からの態度からの行動、言動
普通に考えて、服一枚を変えるだけで、態度がガラリと変わる人間と、
人間を一つの権力と見て、「手に入れる」と言う意志を大事にする人間と、
…どちらが信用に置けると思う?
人間=服装と考える、服装からの態度からの人間は、一言で言うと薄っぺらい
…人間には服装を大事と考える人間と、考えない人間、場に合わせて服装を変える人間、変えない人間、四つの分別がある
人間=服装と考える人間が思う「一貫した人間(常識人)」は少数派である 服装について「大事」と考え、場に合わせて服装を変える人間だ
また、彼らが思う「真逆の人間(非常識な人)」も少数派である 服装について「大事」と考えず、場に合わせて服装を変えない人間だ
多数派と言うのが、服装について「大事」と考えていなくとも、謙虚になって、「場に合わせるべき」と考える人間、これらの人間が最も多数派である それから、服装について「大事」と考えていても、服装をわざと間違える人間、おっぱいが大きいなど、自分の體(からだ)に自信がある人に多い
…普通に考えて、人間=服装と考えて、少数派の善悪を思考すると言うのは、自己中心的な思考(われコン)によるものだ
……彼らの世界は自分たちと敵たちだけがあると言うわけである
人間=権力と考える、権力への意志の人間は、一言で言うと現実的である
その私たちは重厚な現実を元にして、世界観を作っているのであるのだ
疑事的 甘受的
全ての創造物に関して、清潔で、明朗で、分別的な考えを持つのが、疑事的な人間、
全ての創造物に関して、くさくて、不潔で、分別的でない考えを持つのが、甘受的な人間である
…要するに、正しいのが、疑事的な事であり、間違っているのが、甘受的な事なのであるのだ
福沢は批判精神を持たないので、甘受的な人間で、間違っている、
…一方で、私、瀧口(アイイル)は出掛けて行って、批判し尽くすので、疑事的な人間で、正しいとするのが自然である
疑事的な人間…
疑事的な(正しい)人間、疑事的な(正しい)事を集め、権力への意志を知り、征服的な自由を指向する
…アンチ・スチルド(理想)になる事は中間の各過程に収まる
……甘受的な(間違った)人間はその反対である
甘受的な人間は甘受的な事、特に、甘受的な事実になる程、耳を傾ける
善者(ぜんしゃ・科学的に正しいと言える方法による過程を経た者=疑事的な人間)
悪者(あくじゃ・自分勝手な都合のいい所の情報を抜き出して、甘んじて受け入れた者(ダーウィン的科学者、キリスト者的解釈者(”キリスト者”と呼ばれる者は解釈者に過ぎない)、常識的解釈者(”常識人”ではなく、解釈者に過ぎない 自分を”常識人”とする者はすべからく高慢ちきなのである)など)=甘受的な人間)
征服的な自由は
疑問的な自由、
疑問的な自由は
疑事的な人間に繋がる
征服的な自由は「正しさ」なのである
盲目的な自由は
甘受的な自由、
甘受的な自由は
甘受的な人間に繋がる
盲目的な自由は「間違い」なのである
甘受的な人間は受け入れたいものは受け入れる、受け入れたくないものは受け入れない それが普通だと思っている
…これが甘受的な人間である
「常識的」な発想は全て、甘受的な事実のものに過ぎない
…つまり、犯罪的な「常識的」発想があると言うだけで、「常識」が存在すると言う甘受的な(間違っている)事実があり、これを元に世界は病気になっている
「常識」が存在する事は、「あの世」が存在する事と地続きで、「あの世」が実際には存在しない事が、疑事的な(正しい)事実からは分かる
とどのつまり、現実で為せない事は、犯罪的な「常識」で為せば良いと言う発想、つまり、実際の所、「常識的」な現実などは存在せず、ある種の犯罪空間でしかない事、現実以上の現実は存在しない、ただ、事実と言う現実を抜き出したものが「真実(真理)」と呼ばれる事はある
つまり、一概に「常識的」な現実=犯罪的な現実である
「常識的」と呼ばれるものはただ、平衡感覚でしかなく、これがアリストテレスの言う「中庸」であり、犯罪に陥らない為の平衡感覚は「常識的」と言うより、中庸的である
常識などは存在しない ただ、人間本来の平衡感覚=中庸(知性・理性・感覚)、と意志だけが存在する 後は、肉体・現実・言語・形質しかない
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服装からの態度からの人間への批判