No.1184979

【哲学シリーズ16】世界は見る解釈と見られる事実である

eye-elさん

世界の語らないで置くべき事、語るべき事

2026-04-02 14:56:11 投稿 / 全28ページ    総閲覧数:65   閲覧ユーザー数:65

解釈=知識

 

事実=理識

 

 事実を解釈するが、いくら狂った解釈をしても事実にはたどり着けない

 

 世界の中の解釈だけが狂っている

 世界の中の事実は正常

 

 人意的な解釈が世界を狂わせている 真意的な事実をもっと語らなければならない

 

 人間は解釈(常識・霊感)で物を見る

 

→人間の視界は病的に狂っていると言う事

 この世界は、一形多義(いっけいたぎ)世界

 

:一つの形が多様な意義を持つ世界

 

応用例:あの人は一形一義の自分の世界に引きこもる根暗教徒だ

 

 この宇宙は、因子理性宇宙

 

:因子性のあるなしで決まる宇宙

感覚の肯定者、

 

これが※オタクと言うもの、

 

感覚の否定者、

 

(感覚の奥底にある)本能を否定されたもの(去勢的な男女(宗教により解釈が異なるが、たとえば、『コーラン』の言う「無信仰的な、男・女・シャイターン」など))、

 

これが反オタクと言うものではないかね?

 

※オタク…ここで言う「オタク」とは、ニーチェ哲学的(自己肯定、権力への意志、自分(の感覚まで)を信じる事)なオタク

 対をなす、反オタクとは、反・アンチ(反)・クリスト(反・反・キリスト者)=キリスト者(たとえば、国家として、アメリカやロシア、イギリス)にも、アンチ・クリストにも反対する者の意味、つまり、反オタク、アンチ・クリスト、キリスト教徒のみつどもえになる その、反オタクの筆頭が、公善亡き邪悪なる「常識人」と言うわけである

 『アンチクリスト』読んでないオタクなんて、にわかに決まってるじゃんw

 

…現実知らずに、何がどのように描けるのかな?

 

答え:異世界ファンタジー

二大近親楽器:ピアノ、歌声

三大近親楽器:ピアノ、歌声、太鼓

四大近親楽器:ピアノ、歌声、太鼓、ヴァイオリン

 

太鼓は技術とセンスと実演が必要、ヴァイオリンも技術とセンスと実演が必要で、電子音楽には向かない

会社とは、不正である

 

 会社は避けなければいけない事を持っている

 

会社の避けるべきもの:

 赤字(財務赤字)・黒ゾーン(犯罪)

 

…だから、これは紅黒と言う概念からの回避、黒白と言う概念を会社として、行く事になる

 

 会社は黒社と白社、二社であって、一社ではない

 会社とは、二社が一単位なのであって、会社とはそもそもの不正である

 

 会社として、一社=公正を目指す事は結構だが、そもそも、会社など立てなければいい話なのだ

 

…なぜなら、会社などなくても、仕事は出来るから

 

 

 

 「一社指向」(「公正」)と

「二社指向」(「不正」)と

「非会社指向」と

 

…がある

対応幻覚

 個人の感覚と幻覚を対応させる病気が存在する

 世界症である

 世界症の特徴として、「世界は病気である」を読み取れると言うものがある

 

 一症状として、「対応幻覚」がある

 この「対応幻覚」で太ってしまう人もいる

 

 小世界症もある

 「世界幻覚」・「デカダンス」・「世界錯覚」と言う症状が存在する

 

 キリスト教徒はぱいコン・小世界症、病児教徒はわれコン・小世界症である

 

 

 

 この現実世界は「大世界」である

 

 

 

 一般人でも、世界症の傾向はある

 

 いわゆる知性も「対応幻覚」の中に存在している

 

 天才程、世界症の傾向が強くなる

精霊信仰などの信仰の一形態

 

形式信仰

 

 物と、物の物、つまり者における信仰

 

形式(愛者)信仰

 

 物と物にかかる物、者は互いに同様の、愛(マニア)と言う形式を持っている(また、愛者は、人格を認める人すら物的に見る=通常、マニアは人から物だが、愛者信仰だと、物から人も認めている(その形を取るのは、物から人のマニアゆえと言う事=愛物信仰⇔創造神信仰(アガペー)) つまり、形式が形式ばるのは、物が人を愛するからだ、と言う事になる)

 飽くまで、信仰はマニアにあって、愛者信仰はそれをそのまま認めたものでしかないのである

 

形式(愛物)信仰

 

 愛物はラブリーな形をしているが、誰にとっても、その形を取るわけではなく、むしろ、愛物を愛さない見かけだけの者は、愛物に愛されないので、幻覚や先入観、形質に覆い隠されて、愛物として、見えない 「愛物にすら愛されない”恥ずかしい”者」なのである(ただ、「”恥ずかしい”者にとって、”恥ずかしい”者」、形式的でないものも存在する) 物から人のマニア

 

 愛物のマニアには基準があり、愛者がトーレ(誰にでも優しい)か、イントーレ(愛物である自分にだけ優しい)かのどちらかである 人間は自己愛欲(なりたい自分)を持つが、他者愛欲(求める他人)からの自己愛欲にかなう自分を”私”と言うのである 他者愛欲からの自己愛欲にかなわない自分とは、そもそも、愛物(”私”)ではないのだ

 

 愛物による愛物の信仰とは、感覚信仰である

 

病愛信仰

 

 病はものに一方的な、病的と言う形式を持っている

 

 

 

 愛者・愛物信仰は、ただ単純に、男性を愛者に、女性を愛物に置き換えただけで、信仰の強さがそのまま、恋愛・結婚・出産に繋がる 

 現代人はひとえに、形式信仰が弱い

…そして、人として分かりやすければ分かりやすい程(上のトーレかイントーレに近ければ近い程)、女にモテる

 基本的な考え方として、解釈すると、「私が”愛物”である」と考えると、たとえ、他人に愛されなかったとしても、それは自分と言う愛物に愛されず、幻覚とか、先入観とか、形質(「美人」と言う言葉に「美人」は形質される 「ブス」と言う言葉に「ブス」は形質される)で、愛らしい姿に見えない、その他人が恥ずかしいのであって、自分が恥ずかしいのでは決してない

 

…だから、内心、何と思われていようと、自分は堂々として良いのだ、と言う考え方を使う

 

……そして、このような論理で自分は否定されないのだが、唯一、否定されるのだとしたら、他者愛欲(求める他人)からの否定的な自分である つまり、好きな人に「嫌い」と言われる類の事だ

愛星輪廻

 

 愛物は愛星(あいせい)という星の周りを回っており、一周する間が引き伸ばされた一生である

 

 愛物は愛星に愛される限り、何度でも人生を繰り返せる

 

…何度も繰り返す事により、刻みつけられた記憶が、その一生を愛星の愛の終わりとともに、次の生に結び付けられる

 

 あくまで、愛者というのは広大な愛物のマニアに属するものでしかなく、愛物と結び付けられ、結び付けられたその愛物の大きさによって、愛者の人格(器)の大きさが決まって来る

愛星輪廻とマニアの愛物の考え方

 

 器が極端に狭い愛者(男)がいたら、愛星に見捨てられかけている愛物(女)と結び合わせられているから、

…その器から知れるマニアの大きさからして、

……もう、今生辺りには結ばれなくなるんじゃないか?と考える

 

 愛物に愛されなくなった愛者は存在価値がなくなって、その小さなマニアの愛物にすら捨てられる、と考える

 

…では、その愛者を憐れむ事はあっても、憎む事はあってはならない、と考えられる

 

…こういう考え方が健康には良い

スカーレット家

 

ロヴェイン・スカーレット(ロヴェインお嬢様)

トロニティー・スカーレット(トロニティーお嬢様)

クリスティー・スカーレット(クリスティーお嬢様)

 

破潰の神々

 

フリードリヒ・ニーチェ・スカーレット(破潰の始祖)

アイイル・スカーレット(破潰の神々の実質的な始祖)

 

愛物による愛物の破潰=真実性

経済学者は経済学の何を知っていると言うのか? 下の四ヶ条の何を理解していると言うのか?

 

・ほんとうの経済学の歴史は物価上昇(インフレ)続き

 

・「物価を下げる」と言う為政者の言葉は全て嘘(彼らは物価上昇が経済に相乗効果をもたらす事を知っている)

 

・今までの経済は市場拡大と物価上昇で回っていた(市場拡大する所が少なくなったら、物価上昇の意味もなくなり、経済発展はストップする)

 

・「経済」 物価上昇によって、軍隊は規模を拡大出来た 「経済」はある種の哲学によって、つまり、「市場拡大と物価上昇のノリ」で順調に成長しているように見えるが、インドなどを市場拡大し尽くしたら、後は、物価上昇に頼りきりだった「経済」は脱却しなければならない なぜなら、市場拡大の新規領域がなくなる事で、実質的な「経済発展」はストップするからだ

(「金対物価」が変化しない 金は市場拡大によって、順調に増えていたので、日銀も大量に札を刷れたのだが、この頃になると、新たな金が出来なくなって、金対物価がほぼ同じ割合になって来る 結果、余裕が生まれない そろそろ、この状態になる頃、いや、もうなりかかっているか…)

思い込みが発現する世界

 

 これを熟語を繋げて言い表すと、※偏見発現世界である

 

…この世界に私たちは生きている

 

 

 

※偏見…理性が病気になって視覚が歪んで見える一種の幻覚 またはそれによって、視覚的イメージの知覚が歪んで見える一種の幻覚 社会的偏見と個人的偏見の二種類がある

 

 

 

 一番、偏見の中で厄介なのが、「偏見による現実の書き換え」である ただ、これは偏見者に取って、書き換え続ける必要があるので、限界が存在する

病気はある種の知性(情報)である

 

 世界も人類も広く言えば、一つの知性(情報)である

 

 一つの知性(情報)の中に知性である病気も含まれている

 

 病気は名前のない知性(情報)である

 

 一個人や一世界は名前のある知性(情報)である

 

…だからこそ、名前のある方、良いものが、一個人や一世界が先決なのである

 

 このような知性(情報)による知性を医者は持っている …反対に、こう言う知性を持っていない医者は医者ではない

 

 

 

……個人や世界はそれぞれ一つの知性(情報)なのである

 

 それを前提せず、あれこれ、個人や世界について、ニーチェなどが指摘して行くと、理性が苦しむ …だから、まとめさせて頂いた

 一やニや三などを全と考える事は、事実の歪曲者に背を向けて、スキをさらしているのと同じである

 空間的でない(空間の真実=「右は右として右であり(普通に右は右であり)、左ではない 反対も同様に、上も下も前も後ろも内も外も同じ」に反する)

 

…すなわち、七作話世界の作話者(「キリスト」と呼ばれる存在)は存在しない 現実にも真実にも この世界って、そう言う子供(キリスト教徒)の遊びとかじゃなくて、現実なのよね?

 

ちなみに、偏見も空間的でない

空間の真実(空実(くうじつ))

1:右は右として右であり、左ではない

2:左は左として左であり、右ではない

3:上は上として上であり、下ではない

4:下は下として下であり、上ではない

5:前は前として前であり、後ろではない

6:後ろは後ろとして後ろであり、前ではない

7:内は内として内であり、外ではない

8:外は外として外であり、内ではない

9:直接は直接として直接であり、間接ではない

10:間接は間接として間接であり、直接ではない

 感覚は知性感覚と理性感覚があり、重なって現実感覚になっている

 「常識」としては感覚は知性感覚のみとされる

絶対相対化社会

 絶対的な常識を標榜するスチルド(「常識人」)にはアンチ・スチルドがあり、神のキリスト者を標榜するクリスト(キリスト教徒)にはアンチ・クリストがある

 

 通常感覚からの欲動には、究極感覚からの欲動が、盲目的な自由には、征服的な自由が、甘受的な人間には、疑事的な人間が、それぞれあり、

スチルド、クリストは通常感覚からの欲動・盲目的な自由・甘受的な人間(間違った人間)であるのに対して、

アンチ・スチルド、アンチ・クリストは究極感覚からの欲動・征服的な自由・疑事的な人間(正しい人間)である

怪人…趣味的な超人

 恥ずかしくない人間として生きなさい(「お天道様に顔向け出来るように生きなさい」)と昔の立派な人は良く言ったようだが、今の日本人はその逆、無意識が大きい愛物にすら愛されない生き方ではないか?

 

~愛物にすら愛されない程、内面が醜いと言う事~

 ニーチェは霊の存在を神系統において否定したが、言霊威(げんれいい)は実在する(たとえば、呪いを恐れて「平将門」ではなく、「平将門公」と呼ぶなど 高級な言霊威、たとえば、滝口(千葉県の「滝口」が「平将門公」の娘、春姫の貰い手、平忠頼(滝口忠頼)系であり、千葉氏系である 大阪府の「滝口」が「渡辺綱」の”渡辺”、渡辺氏系 いずれにせよ、「滝口」と言う名前は軽々しく名乗れるものではない)で言うなら、一方的に他の苗字の存在感をすり潰す事すらあり得る)

 疑事的な事→自由疑義→征服的な自由→正しい事→正しい人間

と繋がる

 

 つまり、「自由疑義」と言う概念が重要なのである

 

……この概念の中心的な「自分」と言う存在は疑わないものである ただ、人間の言論は作話なので、色々なものが入り混じるので、疑わしきは疑うのだよ …つまり、”はまった”言論に関しては疑わないと言う事

 

 暇だったら、「暇」という事そのものの義(価値)を疑う事を「疑義(ぎぎ)」と言う つまり、「自由疑義」である それによって、私たちは動くのである

…「疑問」や「疑惑」と違った意味でも使われる「疑い」だ 義(意味)を疑うと言う意味でも「自由疑義」は使われる

 

(ニーチェは『アンチクリスト』の中で、「自由疑義」の存在をほのめかしている

第五章 第一小節 信仰とは自分自身を見失うこと「精神力や自由は、疑うところから生まれるのです」 これはニーチェの思想と言っていいが、結果として利用出来たのは、私のみである)

 

…反対に、

 甘受的な事→非自由疑義→盲目的な自由→間違った事→間違った人間

とも繋がる

 

 非自由疑義とは、自由疑義でない的外れな自由概念の事である たとえば、「自由意志」 ”無条件(にあるべき、わがまま)の自由”と言うものである

 愛者・愛物信仰の根幹である愛(マニア)のゆえに、自由疑義を獲得するという事、一つのマニアを守る為に「疑って動く事」を覚えるという事

 愛者・愛物になるという事

同情の無気質

 

 人間には同情気質というものがあり、何でもない人間に対して、何でもなく振る舞えないもので、それが心の内の嘘に繋がり、良くない方向に向かうという前提に人類は立っている

 

 同情に無気質的な事を「同情の無気質」と言い、ニーチェのアンチクリスト哲学の前提となる

 

第一章 第四小節 キリスト教は同情の宗教「アリストテレスという人は、きっと皆さんもご存じでしょう 古代ギリシャの大哲学者です この人はちょっと気のきいたことを言いました 「悲劇というのは下剤みたいなものだ」と 「同情」という病的でムカムカするものを、さっぱりさせるには悲劇を観るのが一番であると言ったのです 下剤を飲んで出してしまえ、と これはさすがだと思います

 こういった不健康な「同情」に私たちは一撃を加えなければなりません

 それが私たちなりの人類愛なのです そして、それによってこそ、私たちは哲学者になるのです」 

 

同情の無気質→『アンチクリスト』→ニーチェのアンチクリスト哲学

快方的な善正

 

『アンチクリスト』

第一章 第六小節 間違いだらけのカントの哲学

「人間の本能は、ある行動が正しいかどうかを、それが気持ちのいいことかどうかで判断します」

 

 たとえば、その人間にとって正しい事、ある魅力を他人が認める行為をしたとすると、形によるが、原則として、「害がない」と判断されるなら、本能から「気持ちがいい」と感じられるわけだ

 

…しかし、犯罪者の「犯罪」は気持ち良さの中に気持ち悪さがあり、絶妙に気持ちの悪い状態にあり、しかし、それを彼は「気持ちのいい」事と判断する なぜなら、彼は本能自體がダメになっているのである

 

 

 

…例として、

疑事的な事→快方的な善正→正しい事→快方的な善正→正しい人間

 

甘受的な事→知的な納得→間違った事→知的な納得→間違った人間

 病気の実體(じったい)とは、強い思い込みである

 

 人間の認識の中に形質(科学呼称形質)があり、その形質に定められた集合認識(「症状」と呼ばれる)を病名で呼ぶ事で、強い思い込みとともにその名で、患者は患者足る

 

 認識を断ち切り、真っ暗の認識で暮らせるならば、いかなる病気も病気足らない

 

…ただし、苦しみ自體(じたい)はついて回る 苦しみを感受する事で、病気と言う形質甘受ゲームを終わらせられる


 
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