No.1185106

【変態論議シリーズ7】「常識」の系譜 まとめ

eye-elさん

最初からわるい宗教や組織や国家はいないにしても、世代を追うごとにイントーレ(悪=不寛容)になって腐敗して行く(なお、個人もイントーレ化して行く) 悪の宗教や悪の組織、悪の国家はこの流れである

2026-04-05 06:35:48 投稿 / 全21ページ    総閲覧数:65   閲覧ユーザー数:65

「常識」の系譜

 

 何故、彼らは大人な事を「子供」(「常識外」)と、子供な事を「大人」(常識内)としてしまったのか?

 

 自由平等と言うものが取り入れられるに従って、彼らは大人な人と一緒にされる事を極度に嫌い始めた

 

…何故なら、大人な人と対等に並べられると、自分があまりにも嘘つきで、低俗で、自己逃避的で、尊敬に値しない、気品のない人間だとバレてしまうからである

 

…実際、華やかなダンスパーティーなどでそう言う状況に置かれると、大人な人には「どうぞいて下さい」と言うのに、彼ら、子供な人には「帰れ」などと言われて、蔑まれ、追い立てられるのみなのである

 

 だからこそ、彼らは逆に、大人な人達こそが「嘘つきで低俗で下品な人達」、実際は逆、「正直で、高貴で、気品のある人達」なのに、実際の逆、「嘘つきで低俗で下品な人達」とする価値観を必要とした…それを求めて得たのが、「常識外」「常識内」である …つまり、子供な「常識」であるのだ

 

 

 

 大人な人達が好む自由性、これを彼らは子供の感性で計り、本来の自由であった自由性を、自らの未熟な心である反抗心によって、「不自由性」として、さらに、自由において勝てはしないのに、彼らの中で、「負けていない」とする為だけに、その「不自由性(変態性・幼児性・犯罪性)」と呼んでいる自由性を「嘘つきで低俗で下品な人」のものとした

 彼らの中の「常識」に世間の人たちは現在、含み込まれてしまっているのである …彼らが大きいからではなく、むしろ、小さいから、彼らは世間に向かって、自分たちを大きく見せる為に、「常識」を必要としたのである

 

……だから、世間の人たちを「常識」が含み込むくらい大きいのは、ある意味、当然なのである

 「常識を持っている」と言う言葉は、それらの人たちの誤解に過ぎないのだ

 

 

 

 彼らは「常識外」の人たちを「変態的」・「幼児的」・「犯罪的」としたが…

 

…あまりにも”嘘つきな”彼らの言い分だと言う事を考慮されたい

 

 つまり、「嘘つきで低俗で下品な人」のものとは、「変態的」・「幼児的」・「犯罪的」と彼らはしたが、実際には”嘘つきな”彼らからして、元々のものが嘘をついて隠さなくてはならないものであり、それが「正直で、高貴で、気品のある人のもの」、彼らの言う「変態性」・「幼児性」・「犯罪性」が実は、このようなものであると言う事を大嘘をついて隠し、一生において隠し通さなくてはいけないと思ったのである …ただ、無知故に、その意気込みが今の世代にはない

 

 ……その理由として、彼ら自身が「変態的」・「幼児的」・「犯罪的」なのであって、その彼らこそが、あまりに”嘘つき”である為に、彼らが人を「変態」と言う事は、逆に彼らが「変態」である事の証明にしかならない

 ほんとうに「変態」と言う事は二つ、口があったり、二つ、カラダがあったりして、精神的に「変態」だからである

 

 …彼らが”それ”である

 

…しかしながら、この「常識」の系譜で知る事の出来ない彼ら、子供な人達は、この”真実”に何の抵抗も出来ない

 ただ、大人な人達が態度をもって、「変態性」=「正直で、高貴で、気品のある人のもの」と言う等式は、彼らの大人な人達への「変態」と言う言葉が全て、実は、大嘘であった事をより多くの人に知らせるのみなのだ

 

 

 

 大人な人達の価値観は「自由性=特別」「不自由性=凡」である

 

…これが、大人な「常識」であるのだ

 

…ちなみに、子供な「常識」である、「常識外」「常識内」は、これによれば、「凡」である・

 

 

 

 子供な人は元々、デカダンス教徒であり、大人な人に取りついている

 

…デカダンス教徒は大人な人と内部の自分達を区別する為の、価値観を必要とした

 

……それが先ほども言った通り、「常識外」「常識内」である

 

 大人な人の価値観を内部で見たからこそ、これだけ正確に大人な人をつまはじきに出来る価値観を挙げられたのである

 

 

 

…ストーカーであり、のぞき魔であり、(大人な人への)内部批判家(人を怒らせたり、人自身を疑わせたり、自分を大きく見せたり、悪口を浴びせて人の出した答えを攻撃する※軽蔑家)と言う賤民であり、(大人な人への)内部監視家(同性も異性も透かして見る人間、まさに変態)と言う賤民である

 

※軽蔑家…病児教徒に取っての最高の職 これ以上に病児教徒はなれない、他にどんな職に就いていようと ほとんど、悪口や罵倒を人の内部で、人の考えや人自身に浴びせかけるだけのお仕事

 

(賤民の中の上の立場に内部批判家があり、下に内部監視家がある 内部批判家と内部監視家を兼ねている奴は一番下)

 

……それが子供な人、つまり、「常識人」の現在の地位なのである!

 

注※中立的な事を「常識的」と言う事があるが、全然違う

 

「常識」の系譜2

 

第一の系譜(第一の神の系譜)

 

忠不忠派形成(=心からのものが神とされた時代=勝利、心尽くし、※感謝の言葉)

『列王記』啓示!

善悪派誕生

善悪派勝利

 

※1感謝の言葉…礼を言いつつ、”やってもらって当然”と思っている病児教徒もいるが、それは病児教専用の無感謝感謝なのである(彼らは理性(あたま)が病気なのだよ)

いわば、「常識人」は”やってもらって感謝する”のではなく、”感謝したからやってもらう”、現実と彼らの理性で、順序が逆なのだ

…要するに、彼らに取って感謝は高慢の表現でしかない 気持ちの悪い奴らだな……

 

第二の系譜(第二の神の系譜)

 

※2罪の包摂(ほうせつ)=神の包摂説誕生(=神(アッラー)が生まれた)

神の包摂派誕生

上に同じく、善悪派勝利

 

※2罪の包摂(ほうせつ)=神の包摂説…たとえば、「”犯罪者が暴れている様子は包摂されている神があらぶっているものである”」と言う説

 「”罪をいかにうまく扱うか”」が、この世界の支配者になれる秘訣であると当時のイスラエルではされた

 この逆説が善悪派の「律法と報い」・「罪と罰」である 

…なお、人間社会では、罪=邪悪とされる事は承知いただきたい

……たとえば、扱い方に「ジハード」と言うものが存在する

 神への畏怖と滅私の精神がなければ、犯罪者自身が罪に殺されるのがオチなのである

 

第三の系譜(第三の神の系譜)

 

律法誕生

『エノク書』啓示!

ユダヤ教成立

 

第三の系譜

 

イエス生まれる

イエス磔刑

キリスト教誕生

福音誕生

 

第二の系譜

 

ムハンマド生まれる

『コーラン』啓示!

ムハンマド死去

『コーラン』啓示終了

 

第一の系譜(第三世界の主(あるじ))

 

ニーチェ生まれる(1844)

ニーチェ、『アンチ・クリスト』を悟る(1888頃)

ニーチェ死去(1900)

 

アイイル生まれる(1994)

自身を主のヴァーレット(地上的使徒)と悟る(2017)

『アンチ・スチルド』始まる(2025(2024))

…たまに、病児教はキリスト教(善悪派の亜流)のやり方で攻撃を仕掛ける

 

 奴らこそ錯覚(幻覚)者であり、そのやり方は人の文脈の字義を曲解する事で、真実をねじ曲げようとするのだ

 

 

 

……忠不忠派と善悪派の戦いは今に続いている

 

 近代だと、ニーチェとキリスト教、

 

 現代だと、私、アイイルと病児教

である

 

 

 

…まるで、ゾロアスター教の「世界は善と悪の闘争の場」を想起させるものではないかね?

東アジアや東南アジアの独立と神国思想

 

 独立と神国

…が一セットならば

独立保持支援と神国

…も一セットなのだと考えられる

 

 神国が日本である事を考えると、今までの近代・現代の日本の対外的な働きは全て、この二つにあると考えられる

 「権力への意志」の系統の最新概念

肉体からの精神・「力の容器からの成立事実」(略称:成立事実)

 

 病児教徒に解体されないので、安心して覚えられる

 

…「権力への意志」や流出説(魂が肉体を動かす)は解体されるので、安心出来なかったのだよ

 

 他にも、「力の容器からの成立愛欲」(略称:成立愛欲)などある

 

 

 

…ちなみに、犯罪やら、慈善やらは「力の容器からの不成立事実」(「一個幸福から外れた他者への行為」参照)である

 

……犯罪感情として、「力の容器からの不成立愛欲」がある

 

 不成立愛欲から不成立事実が出る 慈善とは、不正譲渡、公共化された犯罪なのである

 

…すなわち、成立愛欲から成立事実が出る これを俗に、「心が体を動かした」と言うのである

 人格形成の原因としての概念の最初、第一位に挙げられるのが、学問への順(したが)い、第二位が宗教への順い、第三位が社会への順い、その他諸々が最下層民のものである

 

…たとえば、金への順い、舌への順いなど

 

 第一位から第三位がそのまま、階級の第一位、階級の第二位、階級の第三位になる

〇「常識」の系譜3

 

…元々、キリスト教の前に成立したユダヤ教は善悪の宗教ではなく、啓示当時は明らかに正義の神への忠・不忠の宗教であった

 

 当時、ソロモン以降の『列王記』の内容が議論される中で、忠不忠派と言う意を拾う派があった …これは知識階級であって、上位の立場にある

 神は何を言おうとしているのだろう? いや、神の背後にある人間は何を言おうとしているのだろう? つまり、忠不忠の不忠の神から遠い者を啓示したと言う事は、忠の神から近い者も啓示したと言う事… と、真実を明らかにしようとしていた

 

 ところが、善悪派と言う安易な意を求める派があって、神は「悪」と言っているぐらいだから、我々の一概的な立ち位置を示そうとしているのだろう それは「善」だ

 

 啓示と言う学問的なものを、単なる神の出した問題として、善悪派は啓示と真実を、善悪二元論と言う解釈でねじ曲げたのである

 

 

 

 『列王記』がそれを物語っているが、啓示をねじ曲げる解釈をする者によって、啓示は時代を追うごとに何を示すのか? 分からないくらい、ユダヤ的善悪二元論と言う気難しくて近寄りがたいものになって行った 実際、『列王記』の時代から現代まで残っている聖書解釈と系統解釈は膨大な偽啓示を生むとともに、人類には有害とさえ言われ、ニーチェまでは誰も近寄る努力さえして来なかったのである

 

 忠・不忠とは、単に神に従うのではなく、登場する神が示す、ヘブライ民族の総意にヘブライ語を解す自分も積極・消極の形で、含まれている事を表しており、神の声(ひらめき)を聞くのに、問題がない人の事と問題がある人の事を示している

…それは、三つの階級に人を分ける道しるべであり、忠と中間と不忠があり、正当に解釈して行くなら、このような国を築いて行く事が出来たのである

 ヘブライ人と言う言葉は、真実によって解釈された啓示を理解する者と言う崇高な啓示的民族を示す

 それに至っていないからこそ、ユダヤ人としか呼ばれないのである

 

(問題がない人たちの考えはそのまま思想に取り込めるし、中間の人たちは少し改良すれば、国の基礎になるし、問題がある人たちの考えはその場その場の仕事で役に立てばいい 三者三様なのである)

 

…そのように時代を経て行けば、ニーチェが『アンチクリスト』で書いた「三つの階級」のような、健康的な国の階級システムを築けたはずだったのである

 

 

 

 啓示をねじ曲げる善悪派、危険なユダヤ人と呼べるような思想家は、確実にその国の階級の外、ランク外に追い出せるはずだった

 

 それ「主のみ目に悪とされた」は、社会構築に関わる啓示だったのである

 

…しかし、忠不忠派ではなく、善悪派が勝利し、忠不忠派は歴史から葬り去られ、善悪二元論と言う時代錯誤のものが「常識」となり、善悪派は「常識人」となって行ったのである

 

 

 

結論:キリスト教の土台となったユダヤ教は異端(カルト)の部類である

真理とは現実の奥底にある現実そのものである 真理は真実に現され、真実は現実として現れる

 

忠=真理がただ現される事

不忠=真理が全く現されない事

…詰まる所、子供な人の「常識」とは、病児教的善悪二元論である

忠不忠派の神クリスティー・スカーレット

第一階級:忠(近く)の人間    :主のヴァーレットのアンチ・クリスト

第二階級:中間の人間       :一般のアンチ・クリスト

第三階級:不忠(遠く)の人間   :一般の人

ユダヤ教の精神はこれにある

・不悪とは善であり、

・不善とは悪である

 ユダヤ教にとっては「常識」だが、キリスト教にとっては「常識」ではない

 

 これをもっても、キリスト教は腐り切っていると言える

 

 なぜなら、「”マスターベーションをするな”」と言う一方的で、人間について無知な福音を中心の基準にして、キリスト教会は動いていて、犯さない事自体不可能である

 

 この曖昧な福音により、

・不悪とは善である、も

・不善とは悪である、も

崩れているのである

 

 〇精していないから、ノーカンと言うわけである

 

…また、「”罪が犯したのであって、私が犯したのではない”」と言う言い訳が通じるような世界である

 

 つまり、ユダヤ教も異端民ではあるが、キリスト教はさらに下、ユダヤ人は「常識人」だが、キリスト教徒はその「常識人」ですらないのである

 

 これによって、キリスト教徒によるポグロム、ヒトラーによるユダヤ人大虐殺が一挙にただ否定される

「常識」の系譜4

 

 ここで、アメリカについても触れたいと思う 正しい意味での経済学は正しい歴史にあるが、史観において、アメリカのフーヴァー元大統領は「理想」と言われている『太平洋戦争の大嘘 47年隠され続けた元米大統領の告発』と言う本でである フーヴァー的史観があるならば、経済的史観も存在し、ともに「真実」と言われるものだ

 

 見た所、構造論的に、このフーヴァー元大統領は古代イスラエル王国の忠不忠派の中心人物と重なる 王ソロモンが彼であり、ソロモン神殿は忠不忠派、つまり、正義と真実の啓示の象徴だったのである

 フーヴァー元大統領は古代イスラエル王国のソロモンのように描かれている、そして、ソロモンの死後、古代イスラエル王国はレハブアムによって乗っ取られてしまった ソロモン神殿も意図を了解しないレハブアムの手に渡った そもそも、レハブアムは啓示(『列王記』)を都合の良い権力の道具として見ていた

 

…これが善悪派の中心人物であったし、アメリカのルーズベルトと重なり、レハブアムは暗君でもあったから、啓示である『列王記』に自分が「へりくだった」と記させ、飽くまでソロモンとの連続性をでっち上げて見せた …逆に、ソロモンと連続性のある忠不忠派のヤロブアムを国を分裂させたとして、「悪」と記させた

 

 

 

 私たちに出来る事は、「藤井厳喜」自身が描き出す「現代のヤロブアム」を『列王記』の「ヤロブアム」にしない事である 元々、「ヤロブアム」の記述とは、レハブアムに下ったものであり、レハブアムが”不忠な”下層民もしくはランク外の最下層民である事を示していた それを「反対に」ヤロブアムに下ったように”見せかけた”のだ …ちなみに、啓示を下していたのは、僧侶ではなく、ソロモンやヤロブアムと言う国の中核を担う大事な大事な第一階級であった

 

 忠不忠派はソロモンの言葉を啓示の言葉として学問的に読み解いていたのだ(忠不忠派は知識階級でもあった) 『サムエル記』『列王記』で僧侶が「主は~」と語る所があるが、後に、善悪派が付け加えて、僧侶を上にする為にでっち上げられたに過ぎない 『聖書』の「大祭司」はそう言う腐敗の上になり立って、ローマ帝国まで続いて行く事になる

 レハブアムは自分の為に、自分を「ただしい」とした、つまり、神性ではなく、自分を「ただしい」とする僧侶、私の言う「偽装者」だったのである

 

…あの『ヨブ記』でさえ、レハブアムをこそ批判している「不義なる者は神ではなく、自分を「ただしい」とする」

 

 

 

 ヤロブアム王は名前を「民は増える」と言う意味を持ち、言い伝えの神の言葉である「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の”増えよ”に由来する これは「神の言葉のままに…」と言う奥深さと神敬(しんけい)さを持つ名前なのである ユダヤ教やキリスト教では『聖書』を作る程、「畏敬的(いけいてき)」や「霊感的」とされる善悪派は、(前に私が言ったように、)”見せかけた”、つまり、言い伝えの神の言葉に唾(つばき)する程、軽薄な集団であった

 

…「エリヤとエリシャ」もでっち上げられた古代イスラエル王国の「神」の歴史であって、僧侶の権威付けの為のニーチェの言う「聖なる大ウソ」なのである

レハブアムはユダヤ教・キリスト教・病児教の総本山のトップ

 

 つまる所、レハブアムと言う人はユダヤ教・キリスト教・病児教の総本山のトップにいて、全てのユダヤ人とキリスト教徒と病児教徒はこの人に跪拝しなければいけない程の、ユダヤ人とキリスト教徒に取っては、それ程の存在なのである

 

…だが、真実を解さない彼らは「諸王の一人」・「無信仰者?の一人」・「誰??」とか言っているくらいなのだ

ヘブライ人の神の名は「ヨヘヴ」=Yohelwu=「イアヘヴ」=「ヨーエーヴ(一番神らしい読み)」=「イアーエーヴ」

 『聖書』のほんとうの意義は、サタンである理性(間接理性=閉塞理性)、アンチキリストであるレハブアム、その後続のユダヤ人、さらに後続のキリスト教徒、そのさらに後続の病児教徒を批判する事であり、それからして見たら、『パウロの書簡』などは罪(的外れ)でしかない

 

 『聖書』の天地創造は新たな『聖書』=「アンチクリスト」(ニーチェ著)・「アンチ・スチルド」を生み出す程、連続したものである

 

(イザヤ・エレミヤ・エゼキエルも同様であり、『律法書』は”欺いてはならない”、”殺してはならない”・”姦淫してはならない”・”盗んではならない”など、ユダヤ人・キリスト教徒・病児教徒への批判で満ちている そもそも、神の意志そのものであるダビデやソロモンが罪を犯すわけなかろう 『福音書』はマタイは批判の嵐、ヨハネはダビデの子、イエス(つまり、ソロモン)に「レハブアム系への批判」の総体を見ている ”あなたたちは神だ あなたたちは皆、いと高き者の子ではないか”と言う言葉はどっからどう見ても忠不忠派に向けた言葉なんだよ 『ヨナ書』では、”とうごま(イスラエル)のためにあなたの怒るのはよくない” 歴史全体から見れば、イスラエルと言う小国など、あたかも、「とうごま」である 『ダニエル書』では、”しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない その第四の者の様子は神の子のようだ”、これはユダヤ伝承におけるメタトロンの「目」である天使の事であり、万人の監視者であって、律法には監視の目が二つずつ設けられていると言う事を示しており、万人の主(私はこの神をロヴェイン・スカーレットと呼んでいる)にユダヤ人の悪事は筒抜けであると言う批判である(バルフォアにおけるデカダンスなど))

南ユダ系の善悪派(僧侶系)のネーミングへの批判

 

 たとえば、エリヤ、ヨシヤ、ヒゼキヤは神を尻に「~ヤ」と敷いた名前であり、当時の性倫理では、(めとられた)女は(めとった)男から尻に敷かれるべきとされていた為、神を女(妻)とする行為であった

 

 『ホセア書』は「神を女として、尻に敷くな(神を女とするな)」と僧侶系のネーミングを批判している

「常識」の系譜5

 

 大人な人の生涯とは、後手将棋である

 

…飽くまで、大人な人と子供な人は対等なのであるが、ただ単に、子供な人はその高慢さゆえに、悪手を打ち続けるのみなのである

 

 

 

 善悪とは、本来、単純なものではなく、自然からして、原風景を忘れないも忘れると言うトーレイントーレ(善悪)が存在するが、子供な人は自分の中で、これを退廃させて、「常識外」「常識内」とする 「嫌だ」からである

 

…そして、単純な善悪システムを作り上げた、これが「常識」と言うものである

 

 

 

……しかし、大人な人の本能はこれを利用して、自然の善悪、トーレ・イントーレの内、トーレ(善)に居続けるのである

 

 これは闇を見る事により、闇への寛容が高まり、光(現実世界)への寛容にもなると言う事だ

 

 

 

…この、自然システムを、ニーチェや私、アイイルが利用して、自分自身からの努力と言う事、に関して、骨身を惜しまない(寛容になる)と言う事が出来るのだ

 

(私としては、飽くまで、世間などどうでも良いから、あえて、自分を軽んじさせる事、自分の主張をする事、両方を行って、視闇體験(しあんたいけん)を貢がせていると言うわけである)

 

 

 

 この、光(現実世界)への努力においての寛容(トーレ)(視闇體験による善(トーレ)化)またはトーレ(寛容)はトーレ(善)と言うのは、キリスト教や病児教、社会主義以外の世界においては「常識」である

「常識」の系譜6

 

「特にアメリカとは戦争しない」との常識→犬養毅

 

 五・一五事件では、日本と言う国の元々の、上のような常識的な考えを持つ、代表である首相・犬養毅が殺された

 

 現代において、歴史上の問題なのが、現代日本までの流れとして、五・一五事件と言う犯罪によって、「アメリカとは戦争した方がいい」と言う非常識が「常識」になってしまったと言う事 その後の日本の国体、首相や各大臣が、五・一五の犯罪者と同じ考えを持つようになってしまったと言う事

 

 そして、一度、非常識が「常識」になってしまうと、その犯罪的な「常識」は非常識に戻らず、そして、歴史的に「」の外れた”常識”になってしまったと言う事 そして、その”常識”をもって、アメリカと戦争をすると言う愚行を犯した

 

 この犯罪的、国家反逆的な”常識”が現代日本社会を作っている

 

 現代では、犯罪因子のない真っ当な人が考えると、”常識”とは反対の事が常識になる

 

 つまり、現代の暗愚・頑固の”常識”に対して、明朗・柔和が常識になる それは元々の、私たちの知的先祖の、常道の思考に戻ったと言うだけの事なのである

 

 現代の”常識”と言うのは、非常識的常識、犯罪的常識なのである

「常識」の系譜7

 

滝口から千葉へ

 

 平将門、娘のもらい手である平忠頼までは「滝口武士」は武士のエリートコースであったので、「滝口」を名乗っていたらしい

 

…だが、歴史家の間で、「平将門の乱」の平将門の別名、「滝口小次郎」の名前が問題になって来たらしく、滝口武士・忠頼の子、忠常からは「千葉」を名乗り始めたようだ それからの、ほとんど平将門の子孫の千葉氏が、今の「千葉県」の直接の由来になっている

 

 千葉氏で、大名として明治維新まで生き残った相馬氏が実は平将門の幼名の姓(相馬小次郎)であるという事を知っていた人は、安土・桃山時代の千葉氏の相馬氏以外の没落とともに、こぞって滝口氏に改姓した(つまり、平将門・平忠頼が「滝口」を名乗っていたので、”戻した”とも言える)と思われる …まだ、劣等感情に押し潰されていない、思考力を有していた者は、だが…

 

……結果、現在の千葉県にも東京都にも、「滝口」の名は絶えようがない程、存在している

 ユダヤ教、キリスト教的な常識、「弱さは強さ、強さは弱さ」

 貴族道徳的な常識、「強さは強さ、弱さは弱さ」

 

…ここで言う弱さとは、多様なものを認められない弱さ、一元的な論説によるもの、または民族主義など

 

 病児教的な常識、「大人は子供、子供は大人」…「トーレ(善・寛容)はイントーレ(悪・不寛容)、イントーレはトーレ(普通に考えて、老人や女性に席をゆずる程寛容な人が不寛容な犯罪などするだろうか? すると考えるのが、病児教的な常識である 子供な常識人は「暗愚で頑固」である)」とも

 大人な常識、「大人は大人、子供は子供」…「トーレはトーレ、イントーレはイントーレ(普通に考えて、トーレ(寛容)はトーレ(善)であり、イントーレ(不寛容)はイントーレ(悪)である 大人な常識人は「明朗で柔和」である)」とも

「常識」の系譜8

 

 要は、大人な「常識」と子供な「常識」は二種の「常識人」として、激しくぶつかり合った

 

 大正時代、成金が生まれた頃、当時の中流階級のダンスパーティーに成金が押し寄せ、出たがったが、上品なダンスパーティーに低俗な成金はふさわしくないと多くは断った

 

…この時、生じた常悪感情が現代の「常識」に含まれるスラング常識を作った

 

……その生まれた子供な「常識」は五・一五事件の際、犯罪者的な「常識」とくっつき、大人な「常識」の系統である、犬養毅的な大時代的な「常識」になり代わった 以後、皇民を支配し、敗戦まで、その支配は続き、戦後も…

 

 「キチガイ」というスラング常識は少なくとも、70年代からは普通に使われるようになり、「変態」「オカマ(オナベ)」を加えて、現代まで続いている

 

 

 

…要するに、内面もしくは外面において、スラング常識を使い続ける、”犯罪肯定的な”最下層民系統の「常識人」と飽くまで、「常識」を反・犯罪者(アンチ・スチルド)的に用いる、”犯罪否定的な”上流階級系統の「常識人」とが存在する 無論、前者が子供な「常識」の系統で、後者が大人な「常識」の系統である

 

……そして、「キチガイ」(常悪の状態になる人)とは、犯罪肯定的な「常識人」の事であって、決して、犯罪否定的な「常識人」の事ではない


 
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